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ゴート戦争 (376年–382年) : ウィキペディア日本語版 | ゴート戦争 (376年–382年)
376年から382年のゴート戦争()は、ゴート族がローマ帝国領土内のバルカン半島に侵入した一連の事象を指す。ハドリアノポリスの戦いに代表される緒戦において、ローマ帝国が蛮族に対して敗北を喫したことで、最終的に西ローマ帝国消滅に繋がる『ローマ帝国衰亡』の始まりを告げる“歴史的転換点”〔http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134863/1/aak_10_1.pdf〕だったと言われている。 == 概要 == 376年の夏から秋にかけて、フン族に侵略されたゴート族は、10万人規模でドナウ川北岸のローマ帝国国境線まで逃れて来た。ゴート族の族長はローマ帝国皇帝ウァレンス(在位364年 - 378年)に対して、ドナウ川南岸の帝国領内への移住の許しを求めた。これに対してウァレンス帝は、トラキア地方(現在のシリストラ付近)への移住を認めた〔http://www2.dokkyo.ac.jp/~less0036/5.htm “376年、西ゴート族の多くが東ローマ皇帝ウァレンスの許可をえて国境だったドナウ川をわたり、ローマ帝国内に移住した”〕だけでなく渡河の支援まで行った。ゴート族からローマ軍団への戦士の供給する代わりに、ローマ帝国はゴート族の保護を約束するフォエデラティ(同盟条約)が、両者の間に結ばれた。ローマ帝国がこのような条件を認めたのは、弱体化が進む帝国軍を増強し、新たな貢税者を増やす目的があったとする説もある。条約では帝国領内へは武器の持ち込みは認められないとされたが、帝国の国境警備兵はゴート族が武器を帯同することを黙認していた。 帝国から与えられた土地があまりにも狭かったため、その土地から収穫できる穀物には限りがあり、ゴート族は飢餓に襲われる。同盟契約に基づき食料の供給や十分な土地の分配を要求したゴート族に対し、地元行政官は見返りとして(ゴート族住民を)奴隷として引き渡すよう要求した。ウァレンス帝に窮状を訴えた結果、遠方の町の交易市場で食料を購入するよう促されたが、飢餓に陥っていたゴート族の住民は市場のある町に到達するまでに多数が野垂れ死に、町に到着しても城壁の中に入ることを拒絶された。双方で諍いが起こる中、ゴート族の代表が殺される。とうとうゴート族による反乱がおこり、376年から377年にかけてドナウ川南岸周辺の村々から略奪が行われた。これに対しローマ帝国の駐屯軍は、わずかの砦に籠ってそこを死守するのが精いっぱいだった。 377年冬、ローマ帝国とゴート族の間での戦いが始まる。ゴート族の軍勢はドナウ川南岸を発しを襲撃後、ハドリアノポリス(現 エディルネ)に進撃する。ローマ帝国は皇帝ウァレンス率いる軍勢が追撃に出発する。378年、コンスタンティノープルを出て北西へ向かったローマ軍はゴート族の軍勢と会戦し、皇帝が敗死するなど惨敗を喫した。
戦いに勝利したゴート族はトラキア地方一帯を略奪し、翌379年には守りの薄かったダキアでも略奪を行った。380年、ゴート族の一派である東ゴート族はパンノニアに攻め込んだが、西方正帝グラティアヌス(在位375年 - 383年)が差し向けた軍に敗れる。率いる一派はマケドニア属州に攻め込み、属州の諸都市から略奪、または賠償金を徴収する。381年、ローマ帝国軍はゴート族の軍勢をトラキア地方まで押し戻し、382年10月2日に双方の間に休戦協定が結ばれた。
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